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あれから・・・


もりもり日記 - 森功至オフィシャルブログ

311


生まれて初めてアスファルトの裂け目から上る土煙を見た。

生まれて初めて大地が引き裂かれる音を聞いた。


空は、突然快晴から赤紫色に変わり、吹雪になった。

崩れる家、泣き叫ぶ人々、火のにおい、

教科書でみた戦時中の様だった。

歴史的な災害が起きていると肌で感じた。

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何度も続く大きな揺れ。

繰り返し伝える津波警戒への呼びかけ。

波に飲み込まれる人が映像に流れる。

その人には届いていなくても、繰り返し津波警戒を伝える。

ただただ無念だった・・・

その後の311日の記憶は定かではない。

無我夢中だった、伝えることで精一杯だった。


今なら思う。私たちは過信していたのではないか。

前々日の地震でも、津波注意報が出ていた。

到達予想時刻、私は沿岸で津波のリポートをしていた。

もしも11日だったら・・・

原発立地県として、知識がもっと必要だった。

国も参加する福島第一原発からの放射能漏れを想定した訓練は

大熊町のオフサイトセンターが会場だった。

しかし実際は、原発から20キロ圏内は放射能で立ち入ることが出来なくなった。

もしも当時疑問を抱いていたら・・・

震災から1年。

全国で福島県のことが伝えられる時間が減りつつある。

それでも、私たちは取材し続けなくてはならない。

まだ福島県では震災に伴う原発事故が続いていることを。

日本が、世界が、忘れないように・・・

それが使命。

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1 ■記者の思い

この手記を書いてもらえないだろうかと依頼したのは
今年の1月だった。
当時を振り返りながらまとめるのは大変なことだったろうと思う。
心から感謝したい。

その後、記者とのメールのやりとりの中で、改めて
当時のことを語ってくれた。以下は全文である。

「本当に必死でした。
人間は死ぬ気でやると、記憶喪失になるのだと知りました。
忘れたのではありません。記憶が無くなるのです。
所謂、ショックなのかもしれませんね…。

私なりの反省です。
取材し続けることが、せめてもの罪滅ぼしです。
福島県だけは今も、これから30年から40年も、原発事故にも向き合うので、
これ以上反省が増えないよう、自分に言い聞かせています。」

一日も早い復興を願いつつ、記者はこれからも取材を続けていくことだろう。
同時に、僕たちも決して忘れてはならない。

2 ■震災を忘れないで

僕は3月11日、誕生日で大阪に住んでいますが、震災当時、大阪も震度3のゆっくりした揺れがありました。
すぐにワンセグTVを見ると津波が町を襲っていました。
あの忌まわしい現実が脳裏に焼き付いています。
阪神大震災とはまた違った被災状況で声も出ませんでした。
今はただただこの震災を風化させてはならないと思っています。
3月11日に生まれて僕は毎年、祝福ではなく悲しみの日となりました。
今、願うことは二度と津波や家屋倒壊で犠牲者を出さないことです。

3 ■いつまでも忘れない。

あの日体験した、大きな揺れは私には人生で一番、嫌な予感を感じた時でした。犠牲者の数が日を追うことに増え続け、あの大きな津波と原発事故の映像は衝撃的で、犠牲者、被災者の方の悲劇を、私達はいつまでも忘れてはいけないと思いました。

4 ■忘れません

1年前。
私は東京の会社にいました。
いつもの様に書類をチェックしていると、突然の揺れ。
経験した事のない地震に、机の下に隠れる同僚達。
体を寄せ合いながら聞く「○○大丈夫かな…○○大丈夫かな…」と、恐怖の中でも、保育園にいる小さい我が子を心配する仲間や、大きな声で「早く机の下へ!」と、我が身より仲間を心配し誘導する上司。
古い建物の天井ははがれ、壁にひび、散乱する書類、倒れたパソコン…
何度も余震があるなか、避難。
何もかもが信じられない現実。
仲間のスマホからは東北地方での目をおおいたくなるような映像が流れ、事の重大さを、恐怖を、感じざるおえなかった。悲しい現場となった九段会館はよく仲間と訪れた事のある場所。信じられない思いは、空から聞こえるたくさんのヘリの音に、現実なんだと思い知らされる。
帰宅難民になった私達は、長く長く見たこともない行列で歩き続ける人たちに混じり励まし合いながら家へと向かう。
一番家族がバラバラな時間帯。
それぞれが親や子供や兄弟を案じ、つながらない携帯を何度も何度もかけながら歩く。
公衆電話には長蛇の列。何の為の携帯かと思いながらも諦めずにメールを打ち続ける。やっと家にいる息子と電話が通じた時は、心から感謝した。
足の痛みは生きてる証拠。東北ではこんなもんじゃないんだ。
私は無事でした。家族も無事でした。仲間も茨城や福島の親戚も無事でした。
でも忘れません。
ずっと忘れません。
忘れられません。
未だに戦い、辛くも諦めずに戦っておられる方たちがいらっしゃる事を忘れません。

5 ■ずっと忘れない

あの地震の時、私は千葉の仕事場。
関東は地震が多いので、案外慣れっこになっていた私も、あんな恐怖は初めて。
部屋の中にいた時は、棚の荷物が落ちた程度だったのですが、
外に出たあとに余震が来て、電柱や電線が揺れたり、近くのアパートが揺れてきしむ音を聞いて、
いつもの地震とは違う怖さを感じました。

子どもはすぐに学校から帰って来ましたが、
主人は東京から一晩歩いて帰って来ました。
それからは、ずっとテレビの報道に釘付けで…。

地震がおきた時は、まさかこんなに大きな被害になるなんて思いもよらなかった。

そして1年たった今も、まだこんなに悲しみが癒えないなんて…。

ただ日本中の人が、これからもみんなで被災者を支えようと思っている事は、なによりの力だと思います。

きっと未来は明るいはずです。
そう信じたいです。
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